半世紀以上前に書かれたのに内容が全く色あせない谷崎潤一郎著『文章讀本』

最近はもうすっかり日本語の本は Kindle で読むことが増えたのですが、Kindle では読めない本もまだまだたくさんあるので、日本に一時帰国する際にはいつもリストを用意して、何冊か買って帰ってくるようにしています。

Bunsho Dokuhon

先月一時帰国した時にも、ちょこちょこ本を買ったのですが、今のところ読んでめちゃ良かったのが、作家・谷崎潤一郎さんの『文章讀本』。
文章読本 (中公文庫)
ずばり、谷崎さんが「文章とは何か」について書いた本です。一時帰国する少し前に Kindle で読んだ『5年後、メディアは稼げるか』という本でおすすめされていたので、気になって買ってみました。
5年後、メディアは稼げるか―Monetize or Die ?

ここ数年、天声人語を書き写すノートが売れているそうですが、私にはそれが魅力的な文章習得法とは思えません。文章術を学ぶには、谷崎潤一郎の『文章読本』がいちばんです。この本で普遍的なテクニックを学んだ上で、論理的で美しい文章をたくさん読み込むのが、わかりやすい文章を書くスキルを磨く王道です。(佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか――Monetize or Die?』Location 1843)

一見堅苦しそうな、読みにくそうな本ですが、説明がわかりやすいのですいすい読めます。1934年発売の本なのに、内容が全然古くありません。

もう、納得する箇所が多すぎて、ページを折りまくってしまいました。日本語はもちろん、外国語に関する記述も興味深かったので、一部引用したいと思います。

国語の長所短所と云うものは、かくの如くその国民性に深い根ざしを置いているのでありますから、国民性を変えないで、国語だけを改良しようとしても無理であります。(略)なぜなら、われわれの国語の構造は、少い言葉で多くの意味を伝えるように出来ているので、沢山の言葉を積み重ねて伝えるようには、出来ていないからであります。(谷崎潤一郎『文章讀本』p58)

このくだりの後、谷崎さんはアメリカの作家セオドア・ドライサー(Theodore Dreiser)の長編小説『アメリカの悲劇(An American Tragedy)』の一節を取り上げ、日本語訳と比較しながら、英語と日本語の表現における根本的な違いを考察していきます。
An American Tragedy (Signet Classics)

西洋人は顔一つにもこれだけ精密な描写をしないと、気が済まないのであります。が、原文においては、羅列してある沢山の形容詞が順々に読者の頭に這入り、作者の企図した情景が或る程度には表されている。それは英文の構造が多くの形容詞を羅列するのに適するように出来ているからであり、かつこの場合には、”yet self-repressed desire to do — to do — to do — yet temporarily unbreakable here and here –” と云い、”a powerful compulsion to do and yet not to do.” と云うようなリズムが大いに効果を助けているので、こう云うところに原作者の苦心が窺われます。(中略)われわれの国語の構造では、あまり言葉を重ねると重ねただけの効果がなく、却って意味が不明瞭になることは、この例を見ても明らかであります。(谷崎潤一郎『文章讀本』p61)

さらにこの後、谷崎さんは今度は源氏物語を引き合いにだし、日本語の原文と、その英文を比較しはります。
源氏物語―付現代語訳 (第1巻) (角川ソフィア文庫)

御覧の通り、原文で四行のものが、英文では八行(その直訳で九行)に伸びています。それもそのはず、英文には原文にない言葉が沢山補ってあるのであります。(中略)つまり、英文の方が原文よりも精密であって、意味の不鮮明なところがない。原文の方は、云わないでも分っていることは成るべく云わないで済ませるようにし、英文の方は、分り切っていることでもなお一層分らせるようにしています。(谷崎潤一郎『文章讀本』p65)

実は、私はどんなに優れた翻訳本でも、外国の本を翻訳本で読むことがあまり得意ではありません。どうしても違和感に邪魔されてしまって、うまく集中できないのです。

でも、私は長らくその「違和感」を自分でうまく説明できませんでした。やがて「違和感」は「不快感」となり、名文を読んでいるはずなのに悪文を読まされているような、文章がわかりにくいのか自分の頭が悪いのかよくわからなくなるというじれったさに、いつも悩まされるようになりました。

それが、谷崎さんのこの比較考察を読んですっきり。なんと、谷崎さんも似たような症状をお持ちでした。

従来私は、しばしば独逸の哲学書を日本語の訳で読んだことがありますが、多くの場合、問題が少し込み入って来ると、分らなくなるのが常でありました。そうしてその分らなさが、哲理そのものの深遠さよりも、日本語の構造の不備に原因していることが明らかでありますので、中途で本を投げ捨ててしまったことも、一再ではありません。(中略)実際、翻訳文と云うものは外国語の素養のない者に必要なのでありますが、我が国の翻訳文は、多少とも外国語の素養のない者には分りにくい。(谷崎潤一郎『文章讀本』p69)

ここまではっきり「哲理そのものの深遠さよりも、日本語の構造の不備に原因していることが明らか」と書いてくださると、喜んで本を投げ出せます。でも確かに、原書を読むようになると、翻訳本を読む時にもある程度頭の中で補足しながら読めるので、大分読みやすくはなったような気はします。

ちなみにこれらのくだりは、「文章とは何か」という章の、「西洋の文章と日本の文章」(p51〜)という小見出しの中に収められていたのですが、締めくくりはこうなっていました。

とにかく、語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその缺陥を補うに足る充分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。(谷崎潤一郎『文章讀本』p72)

そうして次の「文章の上達法」という章に入っていくのですが、谷崎さんはこんな感じで論理立ててわかりやすく解説してくださるので、読みながら大分文章の本質を学べたように思います。佐々木紀彦さんが「文章術を学ぶには、谷崎潤一郎の『文章読本』がいちばんです」とおっしゃったのは、きっと間違いありません。

一つ面白かったのは、この本の解説を吉行淳之介さんが書いていらっしゃっていて、「半世紀近く前の文章についての見解にたいして、ほとんど異論がない」とおっしゃる一方で、要所要所突っ込んでいらっしゃるところ。

氏は志賀直哉の文章を高く評価していたようで、「城の崎にて」の一部を引用して絶讃している。志賀直哉の文章を立派なものと考えることに異論はないが、引用部分に疑点がある。(谷崎潤一郎『文章讀本』p234)

この本の冒頭で、氏は『文章に実用的と藝術的との区別はないと思います。』と書いているが、私の考えでは微妙な区別があるとおもう。あるいは氏の心にもそういう考えが潜んでいたのではないか、と推測するが、『文章読本』の目的は一応しっかりした文章が書けるようになることで、小説家になることではない。であるから、氏の論理の展開の仕方も、それでよいとおもう。(谷崎潤一郎『文章讀本』p236)

最後なんて、ちょっと諦めモードに入ってはります。それでも、私は吉行淳之介さんとは違って小説家ではありませんので、この本はとてもためになりました。

『5年後、メディアは稼げるか』という本自体、めちゃめちゃ面白い本だったのですが、その本のおかげでこの本とも出会えて、良かったです。教科書のようにして、これからもちらちらと眺めたいと思います。